2024年7月19日

「すみれの花はいいなあ」な生き方

たまたま読んだWeb記事に私の好きな数学者、岡潔について書いてあったのですが、岡潔の言っていた「すみれの花はいいなあ」な生き方をしていきたいなと、つくづく思いました。


岡潔は、すみれの花を見て「あれはすみれの花だ」「むらさき色だ」と理性的に見るのに対し「すみれの花はいいなあ」と感じることが情緒であり、教育にはこの「情緒」が必要だと言っています。


↑このタイトルもどうかと思いますが…
「頭を良くするため」に情緒を磨こうとするんじゃ
「すみれの花はいいなあ」からほど遠く、
意味ないと思いますがね…


そんなに難しいことではなく、ただ自分の感じる「いいなあ」に素直であり続ければ情緒は育まれていくものだと思うのですが、お金を稼ぐことだったり出世だったり、人と比べて自分はまだまだだから頑張らなきゃだったり、いろいろな思いによって「素直になる」のがなかなかできないのが今の社会なのかなと思います。そんな悠長なことを感じている場合じゃないと思う人もいるのかもしれません…。


いや、、、もしかしたらその「いいなあ」にすら気づかないぐらい疲弊している人が多いのかも、とも思います。


いつだったか、有名大企業でバリバリ働く友人が「幸せってなんだろうね」と言うんですね。

 

私は、「私は毎日普通に暮らしているのが幸せに思う」と言いました。今思えばこれはちょっと言葉足らずだったなあ…。でも私が言わんとしていたことは、「すみれの花はいいなあ」ということなんです。


出勤の仕事の帰り、あぁ疲れたなぁと思いながらとぼとぼ歩いていると、時折すーっと心地よい夜風が吹くことがあります。そんなとき、ふっと「ああ気持ちいいなぁ」と思ってぱっと顔を上げると、うちの目の前にある並木の葉が風にゆさゆさと揺れていてとっても癒やされます。ゆさゆさといっている音も「ああいいなあ」と思います。


そんなときは縮こまっていた胸もぱーっと開いていく感じがします。結局「幸せ」ってそんなのの積み重ねなんじゃないかなというのが、今の私の実感です。


私が思うに、もちろん例えば「ダビンチの絵はいいなぁ」とか「モーツァルトはいいなぁ」とかでもいいのですが、やっぱり「自然」は特に情緒の形成に重要な役割を果たしているもので、だからこそ「すみれの花はいいなあ」が大事だと思うのです。


友人は「なんか今すごくいい話を聞いた気がする」と言っていましたが、どう受け取ったのかはわかりません。


でも、何かを「いいなあ」と感じることすらできないくらい、働きすぎて疲れすぎているんだなと思って、なんだか心がきゅーっと苦しくなったのを覚えています。


今日ちょっと別の人からこの友人と同じような話を聞いて、この友人の話や「すみれの花はいいなあ」を思い出しました。


私は「すみれの花はいいなあ」な生き方がこれからもしていきたいなぁとしみじみ思った1日でした。

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