水曜日から出勤でしたが、ゲラの出が小康状態になったため金曜日と月曜日がお休みとなりました(わーぃ笑)。
昨日はちょうど良いから太田記念美術館に例の絵を見に行こうと思っていたのですが、副鼻腔炎がまだ良くならなくて、薬がなくなって朝から顔と頭が重くて痛い感じだったので動けず。午後にようやく少しましになったので病院に行ってお薬をもらってきました。早く完治してほしいです。
さて、ずっと前からちょこちょこと読み進めていた本です。ようやく読み終えました。
文豪漱石は、座談や講演の名手としても定評があった。身近の事がらを糸口に、深い識見や主張を盛り込み、やがて独創的な思想の高みへと導く。その語り口は機知と諧謔に富み、聴者を決してあきさせない。漱石の根本思想たる近代個人主義の考え方を論じた「私の個人主義」、先見に富む優れた文明批評の「現代日本の開化」、他に「道楽と職業」「中味と形式」「文芸と道徳」など魅力あふれる5つの講演を収録。
長谷川博己が演じた夏目漱石の印象が強いためか、なんか夏目漱石が好きです(笑)。あぁ、思い出したら直に見たあの日を思い出す💕。いやでも、文学的にも夏目漱石の作品は好きだなと感じます。
この本は講演集で、本書の中で夏目漱石は教師として教えるのがすごく嫌いだったと言っていますが、どの講演も話術が巧みで、書くだけでなく喋るほうも才能があったのではないかなと思います。
内容はちょっと難しい部分もありますが、前の登壇者や紹介者をさりげなく褒め、時に自虐を織り交ぜながら、聴衆に薫陶を与えるような内容をクールにでもどこか情熱的に語る夏目漱石の姿が印象的でした。
内容は↓の動画で分かりやすくまとめられているのでよかったら見てみてください。
私が一番印象に残った講演は「現代日本の開花」です。
夏目漱石は明治維新の前年に生まれたそうで、文明開化の波に翻弄される時代に育ったのだと思いますが、開花開花と騒ぎ立てる潮流に違和感を持っていたようです。
西洋人が長きにわたって築き上げてきた文明を、それを取り入れて間もない日本人がなんの苦労もなくあたかも自然発生的に生み出されたかのように考えその中に身を置けば、時間を早送りしているのだから神経衰弱にかかり息も絶え絶えになるのは当たり前のことだろうと夏目漱石は考えていたようです。つまりこの時代、そういう時代のスピードについていけなくて精神を病む人が多かったということなのかもしれません。
そして明治の文明開花は、長い時間をかけて内発的に文化を発展・熟成させてきたものが、開国と同時に突然西洋文化に晒されて曲折しなければならないほどの強烈な影響を受けたのだから、内発的ではなく外発的なものであると言っています。 では外発的・内発的とはどういうことかと言うと…
一言にして云えば開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だと申上げたいのであります。ちょっとした話が私は今ここで演説をしている。するとそれを御聞きになるあなたがたの方から云えば初めの十分間くらいは私が何を主眼に云うかよく分らない、二十分目ぐらいになってようやく筋道がついて、三十分目くらいにはようやく油がのって少しはちょっと面白くなり、四十分目にはまたぼんやりし出し、五十分目には退屈を催し、一時間目には欠伸(あくび)が出る。とそう私の想像通り行くか行かないか分りませんが、もしそうだとするならば、私が無理にここで二時間も三時間もしゃべっては、あなた方の心理作用に反して我を張ると同じ事でけっして成功はできない。なぜかと云えばこの講演がその場合あなた方の自然に逆った外発的のものになるからであります。いくら咽喉(のど)を絞り声を嗄らして怒鳴ってみたってあなたがたはもう私の講演の要求の度を経過したのだからいけません。あなた方は講演よりも茶菓子が食いたくなったり酒が飲みたくなったり氷水が欲しくなったりする。その方が内発的なのだから自然の推移で無理のないところなのである。
という分かりやすいたとえで説明されていました。つまり、この文明開化には無理があると漱石は考えていたようです。
で、結局どうしたらいいの?というのは漱石にも名案はなく、
ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。
とのこと。ここで講演は終わります。結局この当時の漱石はまだ明確な解決法が提示できなかったようです。
これが明治44年の講演で、亡くなる2年前の大正3年に行われた表題の「私の個人主義」では、他人本位ではない生き方=自己本位=個人主義で生きることによって自分が救われたと言っています。自己本位で生きることがつまりは外発的な開花の波の中で力強く生きることの答えなのではないかなと思いました。
ちょっと長いけれど、漱石の強いメッセージが伝わるなあと思ったので以下引用です。
私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧《きり》の中に閉じ込められた孤独《こどく》の人間のように立ち竦《すく》んでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射《さ》して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条《ひとすじ》で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢《ふくろ》の中に詰《つ》められて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐《きり》さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥《あせ》り抜《ぬ》いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝《いんうつ》な日を送ったのであります。
私はこうした不安を抱《いだ》いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越《ひっこ》し、また同様の不安を胸の底に畳《たた》んでついに外国まで渡《わた》ったのであります。しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然《いぜん》として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦《ロンドン》中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足《たし》にはならないのだと諦《あきら》めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念《がいねん》を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟《さと》ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍《うきぐさ》のように、そこいらをでたらめに漂《ただ》よっていたから、駄目《だめ》であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似《ひとまね》を指すのです。一口にこう云ってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をする訳がないと不審《ふしん》がられるかも知れませんが、事実はけっしてそうではないのです。近頃|流行《はや》るベルグソンでもオイケンでもみんな向《むこ》うの人がとやかくいうので日本人もその尻馬《しりうま》に乗って騒《さわ》ぐのです。ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従《もうじゅう》して威張《いば》ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴《ふいちょう》して得意がった男が比々|皆《みな》是《これ》なりと云いたいくらいごろごろしていました。他《ひと》の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。たとえばある西洋人が甲《こう》という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑《ふ》に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触《ふ》れ散らかすのです。つまり鵜呑《うのみ》と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔《わがものがお》にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞《ほ》めるのです。
けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀《くじゃく》の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。それでもう少し浮華《ふか》を去って摯実《しじつ》につかなければ、自分の腹の中はいつまで経《た》ったって安心はできないという事に気がつき出したのです。
たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売《うけうり》をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢《どひ》でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具《そな》えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいうところと私の考《かんがえ》と矛盾《むじゅん》してはどうも普通《ふつう》の場合気が引ける事になる。そこでこうした矛盾がはたしてどこから出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、溯《さかのぼ》っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない。それを、普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものはきっと乙《おつ》の国民の賞讃を得るにきまっている、そうした必然性が含《ふく》まれていると誤認してかかる。そこが間違っていると云わなければならない。たといこの矛盾を融和《ゆうわ》する事が不可能にしても、それを説明する事はできるはずだ。そうして単にその説明だけでも日本の文壇《ぶんだん》には一道の光明を投げ与《あた》える事ができる。――こう私はその時始めて悟ったのでした。はなはだ遅《おそ》まきの話で慚愧《ざんき》の至《いたり》でありますけれども、事実だから偽《いつわ》らないところを申し上げるのです。
私はそれから文芸に対する自己の立脚地《りっきゃくち》を堅《かた》めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁《えん》のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的《てつがくてき》の思索《しさく》に耽《ふけ》り出したのであります。今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人にはよく解せられているはずですが、その頃は私が幼稚《ようち》な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私のやり方は実際やむをえなかったのです。
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握《にぎ》ってから大変強くなりました。彼《かれ》ら何者ぞやと気慨《きがい》が出ました。今まで茫然《ぼうぜん》と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図《さしず》をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。
自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯《しょうがい》の事業としようと考えたのです。
その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰欝《いんうつ》な倫敦を眺めたのです。比喩《ひゆ》で申すと、私は多年の間|懊悩《おうのう》した結果ようやく自分の鶴嘴《つるはし》をがちりと鉱脈に掘《ほ》り当てたような気がしたのです。なお繰《く》り返《かえ》していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。
久々に読書記録を長々と書いてみました。ちょっと難しいけれど折を見て読み返したい1冊だなと思いました。
ここのところ副鼻腔炎の影響でゴロゴロしていないと辛いので、Kindleで久々に社会心理学者の加藤諦三先生の本もいくつか読みました。留学中に挫折を経験した時に加藤諦三先生の言葉に本当に助けられました。あの時ほど悩みもなく幸せに生きている今でも、どの本を何度読んでもやっぱり未だに励まされます。週末~月曜は仕事も少なめなのでこちらの読了記録も書くぞ~😆
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