2023年6月6日

【読了】唯脳論

1~2ヵ月くらい前から電車のおともに少しずつ読んでいた本です。ようやく読み終えました。

(筑摩書房HPより)
文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、そして心…あらゆるヒトの営みは脳に由来する。「情報」を縁とし、おびただしい「人工物」に囲まれた現代人は、いわば脳の中に住む―脳の法則性という観点からヒトの活動を捉え直し、現代社会を「脳化社会」と喝破。さらに、脳化とともに抑圧されてきた身体、禁忌としての「脳の身体性」に説き及ぶ。発表されるや各界に波紋を投げ、一連の脳ブームの端緒を拓いたスリリングな論考。

養老さんの本は3冊目ですが、興味のある分野なのだけどやっぱり難しくてあまり理解できなかった…。またゆっくり読み直したいです。


この本の趣旨は「情報化社会である現代は脳の時代であり、社会(特に都会)は脳の産物である」ということ。

人工物は全て脳の産物であり、脳が作った産物に囲まれて生きている私たちは脳の中に「住んでいる」どころか「閉じ込められている」というのが養老さんの主張です(ちなみにこの本は1998年の本です)。

そこで様々な人間の営みを脳の観点から考えているのがこの本です(と思います)。


私の興味が特にそそられたところは音楽と聴覚言語が似ていてそれぞれ右脳、左脳の同じ部位を使うのだという点です。大脳半球のブローカ中枢という部位の右側が楽器の演奏を行う中枢、そしてそれに相当する左側が言語運動の中枢だとか。

普通、「失語症」という言葉があることからも分かるように、左側の言語中枢のほうが損傷されれば言語機能がおかしくなるのですぐに異変に気づく。それくらい言語は誰でも使っているものなので。でも楽器の演奏は皆がやっているものではないため、右側の同じ部位が損傷されたとしても何か演奏をしない限り気づかない。

もしかしたら歌を歌う時にリズムとかメロディーに関してなんらかの支障があるかもしれません。だけど結局言語中枢が正常であれば歌詞は普通に出てくるだろうから「最近歌が下手になったなぁ」くらいにしか思わないのかもしれないですね。(←私の感想)


印象的だったのは、カナダのとある音楽学校に在籍する才能あるオーボエ吹きの生徒が、ある朝目覚めると突然オーボエが吹けなくなっていたという話。どうやってオーボエを吹くのかがわからない。楽器の持ち方すら忘れてしまった。でも読み書きも話すのも歩くのも全く問題ない。

本人も後にお医者さんになったようですが、バイオリン弾きで音楽家になるのを諦めて医師になった同級生がこのオーボエ吹きの生徒さんの脳を調べました。彼女は失語症ならぬ失「音楽」症になったのではとの仮定の下CTスキャンをしたら、右側前頭葉の第三回転という部分に昔の脳梗塞の跡が見つかったとか。そしてここは左側であれば運動性言語中枢に相当するらしいのです。

このことから養老さんは、音楽と言語は内容はともかくとして生物学的な形式では似たものと言わざるを得ないと結論づけていました。


最後にまえがきで印象に残った部分の引用です。

われわれは、かつて自然という現実を無視し、脳という御伽噺の世界に住むことにより、自然から自己を解放した。現在そのわれわれを捕らえているのは、現実と化した脳である。脳がもはや夢想ではなく現実である以上、われわれはそれに直面せざるを得ない。そこからわれわれが解放されるか否か、それは私の知ったことではない。

確かに考えてみれば自然以外は全て人間が作ったもの。つまり本当に私たちは人工物に囲まれ、人工物の中で生きている。つまり脳で創造したものをこの世に生み出してそれを現実としている。それをリアルというべきか、養老さんの言うように御伽噺の世界というべきか。。。このことに違和感を感じないでもない。だけどその違和感が何なのかよく分かりません。。。これ以上考えを進めると哲学的な話になってしまい、私の頭では考えきれないです💦。

ひとまずは自分の違和感という感覚を大事にしつつ、自然との付き合い方、人工物に溢れる御伽噺(かもしれない)の世界の中でどう生きていくか、それについて少しでも考える機会を持てたらなと思います。


という今回はいつも以上に拙い感想でした…。


同じ筑摩書房のこの本↓も気になるけどこれまた難しそう…。



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